ビワタケヒデの現在
ナリタブライアンのすぐ下の全弟・ビワタケヒデの不遇にわたしも加担したという自責の念が強い。
3歳の夏にラジオたんぱ杯を制し、やはりこの血統と騒がれ、クラシック最終戦線に超新星…!
と騒がれた少し前に腸閉塞に倒れたナリタブライアンが、今度はほどなく胃破裂で予後不良となった。
1998年9月27日、奇しくも札幌開催の最終日で、いつにも増して楽しかった夏の終わりが寂しくて、とぼとぼと家路についた直後に知った。
ついさきほどまで一緒にいた友人たちの中にはすでに情報を得ている者もいたが、とてもわたしには言えなかったと、あとから聞いた。
菊花賞を控えたタケヒデが、エビで戦列を離れた。
引く手数多、ちょっとした鳴り物入りの種牡馬入りだったと思う。サドラーズウェルズ・フェアリーキング兄弟の成功をタケヒデにダブらせたひとりが、やっぱりわたしだった。
産駒を訪ねては「いい仔が生まれていた」と顔をほころばせていらした場長さんが守ってきたCBスタッドは倒れ、タケヒデは社台SS荻伏種馬場に移動した。
静かでとてもよいところだったが、3シーズンほど供用されたあと、乗馬となるべくノーザンホースパークへ移動、去勢されていた。
ちょうどその直前に車の免許を取ったばかりで、おぼつかない運転でノーザンホースパークへ走った。
移動して間もないタケヒデは、立ち上がることすら少なく、目に輝きがなくて、明らかに元気がなかった。
心配だなぁと思いつつ、日々に忙殺され過ごした年月。
タケヒデはすっかり変わってしまっていた。
再会してからまもなくタケヒデは半身マヒを起こし、一命は取り留め、食事もできるようにはなったものの、兄と酷似したまあるくやさしい右の瞳の光を失っていた。
まばたきもできず、けれど神経は残っていたようでひどく痛がり、獣医と相談して眼球を摘出。乗馬用途には向かなくなり、社台荻伏にUターンしていた。
サッカーボーイやニチドウアラシも繋養していたものの、このときすでに社台荻伏は撤退の予定が立っていた。今度はタケヒデは、新冠の乳母などを主に扱う牧場に引っ越した。
ここも見晴らしがよく、とても親切な方々に飼養されたものの、長くはいられなかった。
十勝に移動してしまったのだ。
北海道は広い。
高速はつながらず、険しい峠を挟む250kmの旅はわたしにはムリだと泣きながら諦めていた。長距離運転に挑戦してみたいなどと意味不明な口実をつくり一念発起して新居の十勝・池田町へ走ったのは、去年の9月のこと。
ばん馬を飼養する牧場だろうか、十勝らしい険しさをもった牧場だろうか、タケヒデは慣れてくれるだろうか、そんな不安は一見で解消された。
なんとも牧歌的にあたたかな雰囲気の、広大な牧場のサッカーでも野球でもばっちこいな広さの放牧地で、アテ馬候補の1歳クンと仲良く放されていたタケヒデは、これまでCBスタッドの場長さえ「太れない」と嘆かせたほどスレンダーだった身体をふっくらさせ、銭形をひばらに浮かべ、すっかりそこになじんでいた。
タケヒデ用に用意したパドックでは船ゆすりして寂しがっていたからと、模索した結果、こうして他の馬と広い放牧地に放したところ、うまく付き合って、若駒の教育係的な使命もおびていた。
もはや、ただ生きながらえさせてくれるだけでもどんなにかありがたいことかと思わずにはいられなかった。
けれど、この牧場では、タケヒデが何を求めているか、声なき声に真摯に耳を傾け、よりよい方向を模索し、実践し、こんなにもタケヒデをイキイキと生かしてくださった。
ニーズがあって生きていられることのありがたみを、あらためてタケヒデに教わった。
卑怯なわたしは、常に胸の底によどむ罪悪感が少しだけ軽くなるのを感じた。
長らく苦しんできた。
ビワタケヒデの瞳を直視できずにいた。
わたしはタケヒデを通して、ブライアンを見てはいまいか。
わたしが愛でたいのは、この仔の血ではあるまいか。
きっかけがそれであろうと、ブライアンとの関連を切り離せなくとも、タケヒデ自身を好きなんだと真っ向から言えるようになるまで、どれだけの年月を要しただろう。それもごく自然に、移動する先々に会いに行くたびに、贖罪的な感情が薄れていったのは、やはり卑怯ではないかと、今でも思わないと言えばウソになるけれど。
今年のお正月、牧場の計らいで、ステキな年賀状が届いた。なんと、差出人が「ビワタケヒデ」とあるもの。まっ白な雪景色を背景に、相変わらず元気そうなタケヒデ。
雪がとけたら真っ先に逢いに行きたい。
つくづくそう感じた。
まだまだ長くなりそうなので、これはまたいつかということで、今夜はビワタケヒデが元気でいる報告。
マクロビオティック特別栽培小豆